目次
生月島はどんな島?
生月島は、長崎県の北西部に位置する島で、平戸と生月大橋で繋がっているため、車でも通行が可能です。6000人の人が住んでおり、壱部地区・境目地区・元触地区・山田地区の4地区に分かれています。生月島は、江戸時代に平戸領主であった松浦の家臣・籠手田安経の領地であったため、布教先進地でしたが、禁教令が発令されてからは、弾圧の先進地となってしまいました。
生月島のカクレキリシタン
禁教令で全国のキリシタンが苦しむ中、「バスチャンの予言」が、潜伏キリシタンの希望を繋いでいました。「バスチャンの予言」とは、7世代耐え忍べば、神父がやってきて毎週告解でき、隠れて信仰する必要のない時代が来るというものでした。
この予言から250年後に大浦天主堂での「信徒発見」があり、長崎のキリシタン達の中には、「バスチャンの予言」で予言されていた時代がやってきたと信じ、公にお祈りなどをし始めました。しかし、この当時まだ禁教令は続いており、厳しい取り締まりの対象でした。このときにカトリック教会に戻り、現代のカトリックを信仰する人を「復活キリシタン」、禁教令が撤回されてからも先祖代々続く潜伏時代の信仰スタイルを残した人たちを「カクレキリシタン」と呼んでいます。この「カクレキリシタン」のスタイルを残しているのは、実は生月島だけなのです。
転び者の信仰
江戸時代の厳しい禁教政策によって、キリスト教は改宗せざるを得ず、改宗した人は「転び者」と呼ばれました。生月島に残ったキリシタンの信仰は、信じたものを捨てざるを得ない後悔と許しの信仰と言えます。禁教政策によって、神父がいなくなり、告解ができなくなったということは、罪をイエスが身代わりに受けてくれるという受難の意味が失われれ、キリスト教の本来の最も重要な救いの部分が忘却されてしまいました。そして「受難」の代わりに母なるもの「聖母マリア」に自分たちの赦しを乞うようになったのが生月島の信仰の特徴とも言えます。
本来のキリスト教では、パンがイエスの体、ワインが血として考えられていますが、漁師の島である生月島では、パンの代わりに魚、ワインの代わりに日本酒が聖餐として用いられました。
生月島だけに残る祈りの言葉
生月島では、「なじょう(Nuncdimittis)」「ぐるりよーざ(O gloriosa)」「らずだて(Laudate)」という3つのかつてイベリア半島で歌われていたもので、これらの聖歌は今では生月島でしか歌われていません。
生月島には、伝播当時のカトリックの原型はありますが、その内容は失われています。意味と理解は失われても、形と祈りだけは残り、「信仰として守ること」にはブレがありません。
仏教のお経もそうですが、意味はわからないが先祖代々のものであって、なんかありがたい気がする、という要素が宗教の形としてあります。日本語とラテン語、ポルトガル語が入り混じり、そして口伝の過程で音も変わってしまい、もはや意味のわからない呪文になってしまった「御誦詞(オラショ)」にも、反復と暗唱を通じて「神を賛美する」という祈りの習慣を持つということはキリスト教的信仰が残っているといっていいでしょう。
カクレキリシタンの信仰の対象
カクレキリシタンの信仰の対象①中江ノ島
生月島の信仰対象は、キリシタンが祈ると聖水が湧き出る中江ノ島という無人島です。中江ノ島は、平戸島北西岸の沖合2kmに浮かんでおり、島の岩から湧き出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地です。中江ノ島は、「サン=ジュワン様」と呼ばれており、これは、聖=saint=サン、ヨハネ=ジョアン(ポルトガル語)=ジュワン、つまり「聖ヨハネ様」を祀ったものであると考えられています。考えられているというのは、元々キリスト教が伝播してきた当時、宗教用語や名前などがうまく日本語として伝えられていなかったこととと、宣教師がいなくなった時期があり、そこで正しい知識がうまく次の世代に受け継がれなかったため、音だけが残され、元々がどう意味だったのかまで伝来されていないからです。この中江ノ島では、禁教時代に信徒14人が処刑されたと伝えられています。
中江ノ島は、世界遺産に含まれています。
カクレキリシタンの信仰の対象②納戸神
禁教令が敷かれ、潜伏キリシタンにならざるを得なかった時代、仏教徒を装い、仏像に似せたマリア像や聖人を描いた日本画をタンスにしまい、御神体とし、それらに向かって祈りを唱えていました。タンスにしまっていた御神体は、「納戸神」と呼ばれています。
潜伏キリシタンたちは、数十世帯で一つの組を作り、団結して役人にバレないようにひっそりと祈りを続けました。御神体の聖画や像を受け持つ家は「津元」や「オヤジさん」「オジ役」と呼ばれ、同じ家の世襲性か受け回り性でした。受け周りの場合には、御神体はタンスとともに移動され、床の間の空間にハマらない場合には、家の方を改造しました。行事の数も多く、これらの習慣は、漁業で豊かだった伊月島だからこそ続けることができたのかもしれません。
カクレキリシタンの信仰の対象③お札、メダイ
聖画や像の他にもロザリオの十五玄義を筆で木札に書いた16枚で1組の「お札」や「メダイ」などが祈りの対象となっていました。「お札」に書いてあった文字は、達筆で書いてあったため、読み取ることができず、意味はわからないがただありがたいお札として伝わっていました。しかし、近年に専門家が分析し、実は聖母マリアとイエス・キリストの物語が書いてあるということがわかりました。禁教令下において、発覚を避けるためには、日本の祭りなどに近づけることが賢明だったのでしょう。
カクレキリシタンの信仰の対象④枯松神社
は、長崎市下黒崎町にあり、禁教時代に外海地方で活動した日本人伝道士バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀っており、全国的にも珍しいキリシタン神社。カクレキリシタンにとって、重要な信仰対象であるが、世界遺産に登録されてはいない。神社といっても鳥居はなく、小さな社殿がひっそりとあるだけで、厳しい弾圧の中、信仰がばれないように神社としてカムフラージュしたなごりである。
枯松神社では、毎年11月3日に「枯松神社際」が行われている。サン・ジワンとその信仰を守り続けた先祖たちの霊を慰める祈りの行事だが、特徴的なのは、カトリックと仏教徒、旧キリシタン(かくれキリシタン)が一堂に会して祭りを行うことだ。カトリック教会による慰霊ミサやかくれキリシタンの代表によるオラショ奉納など、緑深い山林の小さな神社を前に行われる儀式はとても神聖で、神秘的な雰囲気が漂う。
禁教時代、外海のキリシタンは表面上、寺の檀家となって暮らしていた。その中には、キリスト教が解禁になってからも教会には復帰せず、そのまま仏教徒として先祖が継承した潜伏期の信仰を守り続ける人たちもいた。そのような信者は「かくれキリシタン」と呼ばれ、外海では現在も数戸の家で信仰が継承されている。枯松神社のすぐそばにある墓地を訪ねると、キリスト教の洗礼名と仏教の戒名が一緒に刻まれている、かくれキリシタンの家の墓石があり、「枯松神社際」と同様に、外海の信仰の複雑さを物語っている。
枯松神社のある山に入るとすぐに、大人が数人隠れるほどの大きな岩があり、「祈りの岩」と呼ばれている。ここは、潜伏時代、キリシタンが年に一度、復活祭前の「悲しみの節」の夜にオラショを唱えたとされる場所で、岩の近くには自然石を置いただけの古いキリシタン墓もある。
「潜伏キリシタン関連遺産」から黙殺された生月島の遺産
生月島のキリシタンにまつわる遺跡は、「潜伏キリシタン」ではなく、今なお信仰の形を少しずつ変えて続く「カクレキリシタン」であるとして、「潜伏キリシタン関連遺産」からは除外されました。しかし、生月島のキリシタンに関する遺跡も日本でのキリスト教の伝播と当時のキリスト教を知る上でとても貴重な遺産です。
生月島のキリシタン遺跡①黒瀬の辻殉教地・ガスパル様
平戸と生月の間にある中江ノ島を見下ろす黒瀬の丘にあるキリシタン・ガスパル西玄可が慶長14年に殉教した場所で、 平成3年(1991)にカトリック信徒によって十字架型の「黒瀬の辻殉教碑」が建てられました。毎年11月14日前後にミサが執り行われています。
生月島のキリシタン遺跡②山田教会
山田集落の高所に建ち、大正元年(1912)に鉄川与助の手により完成したレンガ造りの教会です。
建立100年(2012年)にリニューアルしています。 側面のレンガ造りは100年前の鉄川与助が作った当時のものです。 1970年のときに玄関部分を増築し、白で塗装し、それを2012年の時に剥がしました。