ユネスコ文化遺産のある離島まとめ

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目次

文化遺産の離島⑬シチリア島(イタリア)
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シチリア島の南東部にあるヴァル・ディ・ノートとよばれるエリア周辺の8つの町、ノート、ラグーサ、カターニア、カルタジローネ、ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、モディカ、パラッツォーロ・アクレイデ、シクリは、1693年にエトナ山周辺地域をおそったヴァル・ディ・ノート大地震によって全壊しましたが、地元貴族の働きによって驚異的再建を実現し、見事な後期バロック様式の建築・芸術を街に花咲かせました。これによって、「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として世界遺産に登録されています。

ヴァル・ディ・ノートとは、シチリアの古い行政区分ヴァッロ (Vallo) の1つを指しています。

2021年2月にシチリア島にあるエトナ山が新たに噴火しました。周辺地域に危険な影響はないとのことでした。

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  • ノート
https://visitaly.jp/unesco/citta-barocche-del-val-di-noto/

古い町を完全に放棄し、南に約10kmの場所にある丘の上に新たに建築しました。モンテヴェルジネ聖堂、サン・ドメニコ聖堂など、バロック建築の傑作が残ります。街中の住宅のバルコニーには空想の動物や女性像などの彫刻が施され、土地原産の石が使われたバロックの街並みは、さながら町全体が美術館の様相です。夜にはライトアップされ、年に一度のインフィオラータでは、バロックと花のコラボレーションが楽しめます。また、地震前のノートの町の遺構も残っています。

  • ラグーザ

古くはイブラ (Ibla) と呼ばれた町で、深い渓谷に区切られた3つの丘の上にあります。地震後、同じ場所で町の再建が計画され、9つの主な教会と7つの主な貴族邸宅を含む建物がバロック様式で統一した街づくりがなされました。

  • カターニア

シチリア第2の都市で、中心にある、ヴィア・クロチェリ(クロチェリ通り)が世界遺産に登録されています。周辺には教会と修道院が立ち並ぶこの雰囲気ある通りは、現地カップルの結婚式写真スポットにも選ばれています。

  • モディカ

スペイン支配時代に伝わった南米アステカ製法を受け継ぐチョコの街とも知られており、もともと流れていた2つの川の高低差を利用したバロック建築は、街を劇場のように配置させています。サン・ピエトロ教会とサン・ジョルジョ教会が、それぞれコントラストを見せます。

  • ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア 
https://visitaly.jp/unesco/citta-barocche-del-val-di-noto/

サンタントニオ・ディ・パドヴァ教会を中心に広がる街は、ヴァル(谷)という名前通り、山地の山間に位置しています。11もの建築物が世界遺産に登録されており、サンタントニオ・ディ・パドヴァ教会の他に、サンタ・マリア・デッラ・ステッラ教会、サン・セバスティアーノ教会などがあります。

  • パラッツォーロ・アクレイデ

ファサードに螺旋の円柱装飾をもつアンヌンツィアータ教会や、美しい曲線美を持つアッスンタ教会の他、門番のような獅子の彫刻があるサン・セバスティアーノ教会など合計11の建築物が世界遺産に登録されており、街の広い地区に点在します。シチリアバロック特有のその個性的な装飾は可愛らしく、パラッツォ・イウディカ(またはカルーソ)は、バロック建築の中で最も長いバルコニーを持っています。街自体はあまり観光地化されておらず、シチリアの小さな街の雰囲気も健在です。郊外には古代ギリシア神殿とネクロポリも残っており、また近年、旧市街の頂上にノルマン時代の古城が見つかりました。

  • シクリ 

こじんまりとした小さな街で、淡い色の石材で作られたバロック建築が美しく、サン・ミケーレ教会が見どころです。

  • カルタジローネ

バロック建築だけでなく、アラブ時代に伝えられた蒼を基調としたマヨルカ焼きで彩られた街です。街の見どころでもある142段の階段や各教会の床に敷き詰められた陶器は、この街だけで体験できます。

文化遺産の離島⑭マルタ島(マルタ共和国)

バレッタ市街

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地中海の中央部、シチリア島とアフリカ大陸の間に浮かぶ5つの島々からなるマルタ共和国の首都ヴァレッタは、「マルタストーン」とも呼ばれる蜂蜜色の石灰岩で造られた建築物が建ち並び、「ガラリア」という突き出たバルコニーが特徴の家々が建ち並びます。中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つ、聖ヨハネ騎士団によって築かれた城塞都市で、「ルネサンスの理想都市」ともいわれ、街全体が世界遺産に登録されています。

16世紀、マルタ島はヨーロッパとイスラムの境界でした。1565年、イスラムの大国・オスマン帝国が大軍を率いて押し寄せ(グレートシージ(大包囲))、聖ヨハネ騎士団は、激戦の末に島を守り抜き、ヨーロッパ中から集まった莫大な寄付によって、バレッタをより堅固な要塞都市にすべく、街の周囲に深い堀を掘り、大砲の砲弾に耐える分厚い土塁が築き、道路は騎士たちが直ちに沿岸に駆けつけられるよう碁盤の目状に整備されました。そして、騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの名にちなみ、街はヴァレッタと命名されました。この街の中心に建つ聖ヨハネ大聖堂には、ヨーロッパを守るために奮闘した400にも及ぶ騎士たちの墓碑である色とりどりの大理石が床一面に敷き詰められています。

マルタの巨石神殿群

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ゴゾ島とマルタ島からは、約30の巨石神殿が発見されていますが、そのうちのゴゾ島のジュガンティーヤの2基(1980年)、マルタ島の5つの神殿(1992年・バジャーイム、イムナイドラ、ターシェン、タハージュラ、スコルバ)が世界遺産に登録されています。

いずれも紀元前3000~前2000年のマルタ島青銅器時代に建設されたと考えられており、それぞれに特徴があります。高い石造技術や壁画の浮彫り装飾からは、先史時代の人類が美術的、建築学的にどのような形で進化したのかが分かります。

ハル・サフリエニの地下墳墓

マルタ島のパオラにある世界で唯一の先史時代の地下墳墓です。紀元前2500年頃にまで遡ると考えられており、3階層に分かれています。本来は宗教上の聖域として作られたようですが、先史時代の内に共同地下納骨堂に転用されました。

第1階層は地上からわずか10mの位置にあり、マルタのXemxijaで発見された墓に似ています。幾つかの部屋は、自然の洞窟をもとにして人工的に拡張されたもので、出土品からは、これが最古の階層であることがわかりました。

第2階層からは、岩をくり抜いて作られており、いくつかの部屋に分かれています。ほぼ円形の「中央の部屋」からは、「眠れる貴婦人」像が発見され、壁面の多くは、オーカー(黄土)で薄い赤色が付けられています。ほぼ直角形の「神託の部屋(the Oracle’s Room)」は、赤いオーカーで描かれた螺旋模様と斑点からなる精緻な天井画があり、男性の野太い声は反響するが、女性の細い声は反響しないという特色があります。螺旋等を描いた幾何学的模様で埋め尽くされている「装飾された部屋(The Decorated Room)」や、2mの深さがあり、ヘビを飼っていたか施しを集めていたかのいずれかの目的に使われていたと考えられている「ヘビ穴(The Snake Pit)」と呼ばれる部屋があります。

最下層である第3階層からは骨は見つかっておらず、水しか出てこないため、この階層が穀類か何かの貯蔵庫だったと考えられています。

文化遺産の離島⑮ロードス島(ギリシャ)
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ロドス島は、エーゲ海の海上交通の要衝として、古代ギリシャ、古代ローマ、聖ヨハネ騎士団、オスマン帝国などの支配下に行われました。

世界遺産に登録されたのは、「ロードス島の中世都市」で、聖ヨハネ騎士団がイスラム勢力に対抗するために築いた全長4kmにも及ぶ城壁に守られた要塞都市です。城壁には11の門が作られ、城壁内には使用言語で分かれた8つの騎士団の館、騎士団長の館、施療院などのゴシック建築が良好な状態で残っています。

16世紀以降、オスマン帝国の支配下に置かれた後は、モスクや公共浴場などのイスラム建築も建てられました。

文化遺産の離島⑯デロス島(ギリシャ)

エーゲ海のほぼ中央に位置するデロス島で、太陽神アポロとその双子の妹である月の女神アルテミスが生まれたとされています。この島でのアポロン信仰の起源は、紀元前1100年ごろに移住してきたイオニア人たちと言われていますが、デロス島はギリシャでも最大級の考古遺跡で、紀元前5〜前3世紀にかけて造られたアポロン神殿と紀元前2世紀に建てられたアルテミス神殿は貴重です。

港と神域を繋ぐ聖なる道には、紀元前7世紀に近隣のナクソス島民から奉納された大理石のライオンの像が並んでいます。

文化遺産の離島⑰ヒオス島(ギリシャ)

ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院は、東ローマ帝国の時代に建設されたギリシャ正教会の修道院です。この3つの修道院は、地理的には大きく離れていますが、いずれもビザンティン時代中期に建設されており、中期ビザンティン建築に特徴的なスクィンチ式教会堂の形式で建てられていることと、ギリシャにおいて、11世紀に作成されたモザイクが残されているのはこの3つの修道院のみであることから、1990年に「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」として世界遺産として登録されました。ネア・モニ以外の修道院は、建設の過程はほとんど分かっていません。

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ダフニ修道院は、アテネ近郊のダフニにある修道院で、設立に関する書類は全く残っていませんが、中央聖堂のモザイクの様式から11世紀の設立と考えられています。中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で、成熟した中期ビザンティンのモザイクを見ることができます。

オシオス・ルカス修道院は、中央ギリシャ地方・ヘリコン山の麓にある修道院で、9世紀に現れた奇跡を起こす克肖者ルカのために建設されました。中央聖堂は、複合型スクィンチ式の教会堂で、それに付随するかたちで4円柱式内接十字型の教会堂、生神女聖堂(テオトコス聖堂)があり、生神女聖堂は966年、中央聖堂は1048年に完成したものと考えられています。

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ネア・モニ修道院は、東エーゲ海のヒオス島にある修道院で、その起源は、ヒオス島の修道士ニケタスとヨアンニスが、追放中であったコンスタンティノス・モノマコスが皇帝になるという予言し、即位したコンスタンティノス9世は、2人のために修道院を建設し、莫大な寄進と多くの特権を与えました。こちらの中央聖堂は、単純型スクィンチ式教会堂と呼ばれる形式です。

文化遺産の離島⑱サモス島(ギリシャ)

トルコにほど近い地中海に浮かぶサモス島には、紀元前6世紀に栄えた都市国家サモスの往時の姿を伝える遺跡群が残っており、「サモス島のピタゴリオとヘーラー神殿」として世界遺産に登録されています。

ピタゴリオ(Pythagorio)は、都市国家サモスの中心都市で、古代ギリシャ・ローマ時代の記念建造物群が残る要塞化した港です。紀元前6世紀に建造された突堤や市壁、さらに僭主ポリュクラテスの壮麗な宮殿跡などが出土しており、ヘロドトスの『歴史』でも言及された技師エウパリノスの作った全長1.35 km の地下導水路(Tunnel of Eupalinos)なども残っています。もともとティガニ(Tigani)と呼ばれていましたが、数学者ピタゴラスを輩出した町であることから、1955年にピタゴリオに変更されました。

Tunnel of Eupalinos(https://www.instagram.com/p/B00Ta2WnyG-/)

サモス島はギリシア神話の女神ヘーラーの生まれた場所とされ、古くからヘーラー信仰が行われてきました。ヘーラー神殿(ヘライオン)は、ピタゴリオの西方 6 km の場所に残る神殿の遺跡群で、多くの建設段階が知られており、最初のものは紀元前750年頃に遡ります。

第1期の最初の神殿は、紀元前750年頃に建造されたもので、木の柱に囲まれた女神像を中心とする幅 6.5 m、奥行き 32.86 m の細長い神殿でしたが、紀元前670年頃に水害によって失われました。

第2期は、前の神殿が失われた直後に建設が始まり、幅 11.7 m、奥行き 37.7 m と、前の神殿より若干大きくなりました。この神殿は、ギリシア神殿としては列柱廊を備えた初めてのものであったとされます。この時期には神殿に様々な品が奉納されており、サモス島の考古学博物館に収蔵されています。

第3期には、紀元前570年頃に、ロイコスとテオドロスによる幅 52.5 m、奥行き 105 mという、今までの神殿を遥かに上回る規模のイオニア式神殿が建造されました。初めて二重周柱式が採用されたという点でも、建築史上重要なものでしたが、紀元前540年頃に戦火によって失われました。

第4期の神殿は、ロイコスとテオドロスの神殿が崩壊したことを受けて、僭主ポリュクラテスが彼は第3期を更に上回る規模の神殿を設計させましたが、工事は250年ほどにわたり、結局未完成に終わった。後のゲルマン人の侵攻などによって神殿は破壊され、現在は一本の円柱といくつかの遺跡しか残っていません。

文化遺産の離島⑲パトモス島(ギリシャ)

ギリシャの小島パトモスの中心市街ホーラは、聖ヨハネが福音書や黙示録を執筆したことにまつわると伝えられる場所が残っていることなどが評価され、「パトモス島の“神学者”聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟の歴史地区」として世界遺産に登録されました。丘の上に立つ神学者聖ヨハネ修道院を海賊などの外敵から守るべく要塞化した町で、白と青を基調にしたとても美しい街並みです。

1080年に、東ローマ帝国コムネノス王朝のアレクシオス1世が、正教会のクリストドゥーロスにパトモス島を下賜し、1088年から丘の上に神学者聖ヨハネ修道院の建造が行われました。カトリコン(Katholikón, 身廊)、中央教会、資料館、聖マリア礼拝堂などがあり、周辺を黒みがかった城壁に囲まれています。16世紀になると、創立者クリストドゥーロスの聖遺物を納めたクリストドゥーロス礼拝堂も建てられました。

黙示録の洞窟は、聖ヨハネが啓示を受けたとされる洞窟でホーラとスカラ(港)の間の斜面にあります。彼が啓示を受けたとされる場所や神の声が下ったときに割れたとされる岩などが残っています。

文化遺産の離島⑳ムハッラク島(バーレーン

サウジアラビアとイランの間にあり、中東の中でも比較的治安の良い島国であるバーレーンの北東部に位置するムハラク島は、ペルシャ湾に面しており、1850年代から1930年にかけて真珠産業が栄え、約30,000人の潜水夫が真珠の採取するほど、バーレーンの基幹産業として成長しました。海の生態系を損なうことなく海洋資源を活用するシステムは高く評価され、19世紀初めから20世紀初めにかけて建造された真珠貿易商の邸宅(特に裕福な真珠商人だったスィヤーディ一族たちの建造物)や店舗、倉庫、モスクなど17に及ぶ真珠関連の建造物が「島の経済を表す真珠産業遺産」として2012年に世界遺産登録されました。

しかし、1930年を境に、世界恐慌や御木本幸吉による日本養殖真珠の発展によって、バーレーン真珠産業は急速に衰退していきました。

文化遺産の離島㉑ジャワ島(インドネシア)

①ボロブドゥル寺院遺跡群

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ジャワ島中部のジョグジャカルタの北西約40kmの位置するボロブドゥールの仏教寺院群は、770〜820年ころにかけて、仏教を信仰するシャイレンドラ朝によって築かれた世界最大規模を誇る仏教遺跡です。

自然の丘の上にさらに盛土をし、土を覆うように切石を積み上げて建設されたピラミッド状のボロブドゥール寺院は、約115m四方の基壇の上に5層の方形壇、その上に3層の円形壇が重なり、頂上には釣鐘形のストゥーパが聳え立つまさに立体曼荼羅のような寺院です。

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構造は、大乗仏教の宇宙観である「三界」を表しており、基壇は「欲界」、方壇は「色界」、円壇は「無色界」を示すとされています。

建物内に入ることはできませんが、方形壇にある4つの回廊を上階へと登っていくことで、仏教の真理に到達されるとされています。回廊の壁面には仏教にまつわる絵物語が1300面のレリーフで表現され、時計回りに展開するストーリーは、ブッダの一生や仏教の教えを伝えます。

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さらに1885年に見つかった「隠れた基壇」からも160面のレリーフが見つかりました。またこの寺院には5層の方形壇の上に432体、上部3層の円形壇の小仏塔の中に72体、計504体の仏像が置かれています。

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ボロブドゥール寺院周辺のパウォン寺院、ムンドゥー寺院の3つが世界遺産に登録されています。これらは一直線に並んでいますが、その理由は未だ解明されていません。

プランバナン寺院遺跡群

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ヒンドゥー教と仏教の寺院が混在しており、プランバナン寺院(ロロ・ジョングラン/すらりとした姫)とその周囲の仏教寺院のセウ寺院、ヒンドゥー教寺院のカラサン寺院、サンビサリ寺院、プラオサン寺院が世界遺産に登録されています。

9世紀に建造されたプランバナン寺院は、高さ約47mの尖塔を擁するシヴァ神を祀るシヴァ堂と、その左右にブラフマー神とヴィシュヌ神を祀った高さ約23mの堂があります。シヴァ堂の外側の回廊には、古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」のレリーフがあしらわれています。

③サンギラン初期人類遺跡

サンギランは、ジャワ島の東側中央辺りにある町ソロの近くにあり、ピテカントロプス・エレクトゥス(通称ジャワ原人)の頭蓋骨、歯、大腿骨の化石などが発掘されており、考古学的に非常に重要な場所です。

またサンギランの発掘場では、少なくとも150万年前ごろから、比較的新しい1万年前ごろの人間の形跡があり、ジャワ原人だけでなく、メガントロプス、ホモ・エレクトゥスなどの初期人類の化石が多数見つかっており、その数は世界で発掘された化石の半数に相当します。サンギランで発掘されたものの一部は、サンギラン博物館で見ることができます。

文化遺産の離島㉒バリ島(インドネシア)
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バリ島には、美しい棚田がたくさんありますが、その棚田景観を支えるスバックと呼ばれる9世紀から始まった伝統的な水利組合があります。スバックは公平な水の配分を実現する農民たちのまとまりであると同時に、寺院ごとにスバックを持ち、水の神や稲の神などへの崇拝や、それに関わる宗教儀礼とも密接に結びついており、「バリ州の文化的景観:トリ・ヒタ・カラナの哲学を表現したスバック・システム」として世界遺産に登録されました。現在1600を超えるスバックが存在しています。

「トリ・ヒタ・カラナ」とは、サンスクリット語の「トリ」(三)、「ヒタ」(安全、繁栄、喜び)、「カラナ」(理由)に由来し、神と人、人と人、人と自然という三者の調和を重視するバリ・ヒンドゥーの哲学です。

Supreme Water Temple Pura Ulun Danu Batur(https://www.instagram.com/p/CNxD8oQMCFU/)

バトゥール山外輪山の尾根に建っている水の最高寺院ウルン・ダヌ・バトゥール寺院 (Supreme Water Temple Pura Ulun Danu Batur) も構成遺産です。バトゥール湖の女神はすべての川や泉の母神となったと信じられており、他にも多くの神々を祀っています。1926年の噴火を経て、現在の場所に建てられました。バトゥール湖 (Lake Batur) も、構成遺産として登録されています。

タマン・アユン寺院(https://www.instagram.com/p/Bvlq4lsn2vy/)

最古の灌漑システムを含んでいる棚田の景観であるペクリサン川流域のスバック景観 (Subak Landscape of Pekerisan Watershed) や、18世紀初頭に建造され、ジャワ島や中国の建築様式の影響が見られるという特徴を持つ、最大の水の寺院である水の王立寺院タマン・アユン寺院 (Royal Water Temple Pura Taman Ayun) なども構成遺産として登録されています。

ジャティルイ村の棚田(https://www.instagram.com/p/B1OFVZ-g3d8/)

バトゥカル山のスバック景観 (Subak Landscape of Catur Angga Batukaru) には、生物多様性の保持と水田管理の良好さとで評価されるジャティルイ村の棚田が含まれ、アニアニ(稲穂刈りのための小刀)を使った収穫や、ゴトンロヨン(日本の結のような互助労働)など、古くからの様式が残っています。

文化遺産の離島㉓ルアン島(フィリピン)

①フィリピンのバロック様式教会群

フィリピンがスペイン統治下にあった16世紀に建てられたスペイン様式バロック建築の4つの教会が登録されています。ルソン島のマニラのサン・アグスティン教会、パオアイのサン・アグスティン教会(パオアイ教会)、サンタ・マリアのヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン教会、パナイ島のミアガオサント・トマス・デ・ビリャヌエバ教会です。

ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオン教会

特にマニラのサン・アグスチン教会は、1571年に建築され、フィリピン最古の教会といわれています。この教会の礼拝堂にはステンドグラスの窓と、天井と壁に壁画が残っています。

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パオアイ教会の現在の大聖堂とベルタワーは、1694年に着工し1710年に完成しました。大聖堂は両側面と背面に多数のバットレスがあり、その特徴的な外観で有名な建築物です。

②フィリピン・コルディリェーラの棚田群

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フィリピンのルソン島北部中央には、コルディレラ(スペイン語で“山脈”)と呼ばれる標高1000mを山岳地帯があり、その東斜面に世界最大の棚田地帯が広がっており、「天国への階段」と比喩されることもあります。この山域のバギオという街は、避暑地として有名で、このバギオの東北にあるバナウェにも、大規模な棚田があります。また、バダットやボントックも大規模な棚田が広がっており、棚田の総延長は2万kmを越えるとも言われています。

近年は、若者の都会流出による人手不足によって耕作放棄された田や、水の流れを無視した住居の建築も増え、景観の維持が課題となっており、2001年にユネスコの世界遺産の危機遺産へも登録されています。

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コルディリェーラの棚田は、山岳民族のイフガオ族などが紀元前1000〜紀元前100年から造成しはじめたといわれおり、一部水牛なども使われたようですが、ほとんどが手作業でした。

③古都ビガン

ビガン歴史地区は、ルソン島北西部アブラ川河口右岸に位置します。1572年、スペイン領となり、シウダー・フェルナンディナ (Ciudad Fernandina)と呼ばれていましたが、スペイン征服前から、交易を通して日本・中国にはイロコスとして知られていました。スペインやラテンアメリカ、中国の文化要素と巧みに融合した16世紀のスペイン風の建築様式が多くあり、独特の文化と街並みの景観が残されています。

ユネスコに推薦された建造物は120棟であり、そのうちの101棟はバハイ・ナ・バト(bahay na bato タガログ語でbahayは家、batoは石の意味)と呼ばれる住宅です。ビガンのバハイ・ナ・バトが多く残る地域は19世紀末までグレミオ・デ・メスティソス(メスティソ居住区)と呼ばれ、住民の多くは中国系メスティソでした。バハイ・ナ・バトは、スペインの石造住居と中国で盛んだった窯業をもとに、フィリピンの気候風土に適応するように工夫され、メスティソによって建てられた点で、フィリピンの多層文化を体現した建物として評価されました。名に反して石造では無く、木骨煉瓦(もしくは石)造りの2階建ての建物で、1階は馬屋や倉庫として利用され、風通しの良い2階が居住用のスペースとして利用されました。

文化遺産の離島㉔エファテ島、レレパ島、エレトカ島(バヌアツ)

ロイ・マタは、バヌアツのエファテ島周辺の島々を支配していた最高位の首長の称号で、1600年ごろに活動していたバヌアツ最後の大首長であったロイ・マタの生涯を象徴する邸宅、死んだ場所、墓の3箇所が「首長ロイ・マタの地」として、首都ポートビラのあるエファテ島と、その北東に浮かぶ2つの小島(レレパ島、エレトカ島)にまたがって世界遺産に登録されています。 最後のロイ・マタは、エファテ周辺で長らく続いてきた諸部族間の抗争を終息させ、エファテ周辺の島々に平和をもたらしたが、弟の放った毒矢に倒れたなど、バヌアツの口承物語で語り継がれてきた伝説的な首長でした。1967年の発掘調査によって、墓に関する伝承の正確さは証明されました。

ロイ・マタの邸宅は、エファテ島の沿岸にあるマンガースに残る遺構で、石の壁などが残っています。ロイ・マタが死んで間もない17世紀初頭頃に放棄されてしまいました。

フェルズ洞窟(Fels cave)は、レレパ島(Lekepa)にある高さ35 m、幅52m、奥行き47mの洞穴で、伝説ではロイ・マタが死んだ場所とされています。洞窟内の壁には、ロイ・マタの時代の彩色された岩絵や岩刻画が残されており、大きく描かれた人物像の中には、ロイ・マタを描いたものが含まれている可能性もあります。

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ロイ・マタの墓は、エファテ島北東部のハバナ・ハーバーから見渡せるエレトカ島(Eretoka)にあり、レトカ島(Retoka)、アルトク島(Artok)、ハット島(Hat island)などと呼ばれています。ロイ・マタの墓があると伝説が伝えられてきた島だったため、島そのものが先住民にとっては禁忌の土地とされており、今でもロイ・マタの末裔と一緒でないと上陸できません。1967年にフランス人考古学者ジョズ・ガランジェ(Jose Garranger)が地元民の許可を取って発掘調査した結果、伝承を裏付ける墓が発見され、墓からは殉死者と思しき多数の人骨も見つかっています。島には稀少な植物種なども残されているます。

文化遺産の離島㉕ニューギニア島(パプアニューギニア)
© Jack Golson Author: Jack Golson

クックと呼ばれる南部山岳州にある湿地にある農業の遺跡です。7000年前〜1万年前からタロイモやヤムイモなどの生産活動が、開始以来一度も途絶えずに耕作が行われてきたニューギニア島最古の農耕地です。この場所では、約6500年前に植物採集が農業へと変わり、初めは単なる盛り土をして耕作していましたが、やがて木製の道具で溝を掘って湿地を干拓し、4000年前にはバナナの栽培も始まったことが考古学的に証明されています。これほどの長期にわたり、独自の農業の発展や農法の変化について考古学的な裏付けのある場所は、世界にも類がなく、「クックの初期農耕遺跡」として世界遺産に登録されました。

文化遺産の離島㉖オパウラ島(フィジー)

オパウラ島は、フィジーで6番目に大きく、ロマイビチ諸島最大の島で、レブカはかつてフィジーの首都でした。植民地として歩んできたオセアニアの歴史を色濃く残していることから、「レブカ歴史的港町」として世界遺産に登録されました。

レブカ歴史地区の発展は4期に分けることができ、ヴィトガ村 (Vitoga) の遺跡に代表されるベシュ=ド=メール交易の拠点として発達し始めた1820年代〜1850年までの第1期。1850~1874年で、当時フィジーにあった王国のひとつの王であったザコンバウがレブカを拠点としていた第2期には、ヨーロッパ人の入植者も増え、メソジストの教会など、キリスト教関連の建造物も建てられました。

1874年から始まる第3期には、ザコンバウがイギリスからフィジー王に認められ、フィジーはイギリスの保護領となりました。フィジーは実質的にイギリスの植民地となり、レブカが最初の首都となり、最も栄えましたが、その後レブカの地形的制約によって、1882年にはビチレブ島のスバに遷都されました。わずか8年で短期間で遷都されたことで、それぞれの時期を伝える建造物群が良好に残っていることが評価され、世界遺産登録となりました。第4期は首都でなくなった後の1882年から1930年代で、1895年のサイクロン、2016年2月のサイクロン・ウィンストンは、はレブカに甚大な被害をもたらしました。

レブカには木造の1、2階建てのコロニアル様式の建造物群が残り、レブカのメインストリートである海岸沿いのビーチ・ストリートの南部には19世紀末のレブカ・タウン・カウンシル(木造の旧町議会)があり、通り沿いに中心部に向かうと、1890年代に建設された家々や、セイクリッド・ハート教会 (Sacred Heart Church) 、1866年建造のセイクリッド・ハート教会には、石造の時計台が残っています。通りを内陸側に入ると、フィジー最古のホテルである木造二階建てのロイヤル・ホテル(1874年)、フィジー初の公立学校であるレブカ・パブリック・スクール(1879年開校)なども残っています。

文化遺産の離島㉗マーシャル諸島(マーシャル諸島)

第2次世界大戦後に冷戦が始まり、アメリカ合衆国は、当時信託統治領であったマーシャル諸島ビキニ環礁での核実験を再開させるに伴い、住人170人を無人島のロンゲリック環礁に強制移住させましたが、漁業資源にも乏しく、飢餓に直面しました。1948年にアメリカ軍弾道ミサイル基地クワジャリン環礁に寄留し、さらに無人島キリ島へと強制移住させられ、今でも放射能の影響があるため、島に戻ることはできていません。1946年から1958年まで67回の核実験が実施されており、一連の実験は広島型原爆の7000回分に匹敵します。環礁の地質や自然環境、人びとの健康などに重大な影響を及ぼし、ビキニ環礁は、「核の時代」の幕開けの象徴となっており、「ビキニ環礁核実験場」として世界遺産の負の遺産として登録されています。

ビキニ環礁の地域旗は、青地の中の23の白い星が当環礁の23の島、右上の3つの黒い星がキャッスル作戦で破壊された3つの島、右下の2つの黒星が島民が移住した2つの島を示しており、旗の中のマーシャル語は、1946年に米軍から退去を求められた際に首長が島民に語った言葉「全ては神の手の内に」を意味しています。

1954年3月1日のキャッスル作戦(ブラボー実験)では、広島型原子爆弾の約1,000倍の核出力(15Mt)の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのブラボー・クレーターが形成されました。このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が被曝し、第五福竜丸無線長の久保山愛吉が半年後に死亡しました。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになりました。この3月1日は、ビキニ・デーとして原水爆禁止運動の記念日となり、継続的な活動が行われています。

アメリカ合衆国は1958年から残留放射能の調査を開始し、1968年にはビキニ返還を約束して放射能除去作業を開始し、居住を許可したこともありましたが、現在でも永住には適さない環境となっており、原島民は島に戻れていません。

2008年4月、オーストラリア研究会議 (ARC) では、ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅したと発表されました。

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1946年7月1日の原爆実験(クロスロード作戦)の直後の1946年7月5日にルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえ(”like the bomb, the bikini is small and devastating”)、ビキニと命名した水着を発表しました。

文化遺産の離島㉘テムウェン島(ミクロネシア)

ミクロネシア連邦のポンペイ州の南島海岸の100を超える一連の島嶼にあるナン・マドール(現地の言葉ではナンマトル)は、玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて作られた多くの人工島の遺跡群の名称で、その規模はオセアニア最大と言われています。巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、どのような技術を使ったのかは解明されていません。100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、その景観は「太平洋のヴェニス」、「南海(南洋)のヴェニス」、「ミクロネシアのアンコールワット」などとも呼ばれています。

一連の島嶼には、1200〜1500年の間に建てられた石の宮殿、寺院、墓所や居住地域が残り、太平洋諸島文化において活気のあった、シャウテレウル朝の宗教的儀式の中心地であると考えられています。巨大建造物には、高度な技術がみられ、当時の島社会の複雑な社会的・宗教的慣習が伺え、「ナン・マドール:東ミクロネシアの儀式の中心地」として世界遺産に登録されています。現在、マングローブを成長させ、遺跡をもむしばむ水路の沈泥の脅威により、危機遺産リストにも記載されています。

文化遺産の離島㉙セント・キッツ島(セントクリストファー・ネーヴィス)

カリブ海に浮かぶセント・キッツ島は、サトウキビの生産地であり、その利益を狙う他国の侵攻を防ぐため、当時統治していたイギリスが、1960年にブリムストーン・ヒル要塞を建設しました。イギリス軍のカリブ海における拠点でもあり、アフリカ人奴隷によって1世紀以上にわたって拡張工事が行われ、巨大要塞となっていきました。1965年に「ブリムストーン・ヒル要塞国立公園」に指定されて以降修復が進められたため、保存状態は良好で、17〜18世紀のイギリス軍施設の形態を伝えます。

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