海の幸満載!人情溢れる鳥羽湾の島「答志島」

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目次

答志島ってどんな島?

答志島は、鳥羽港から北東約2.5㎞の沖合に浮かぶ周囲26.3kmの伊勢湾最大の離島です。答志、和具、桃取の3つの集落があり、2000人近くが暮らしており、島民の8割ほどが漁業に従事している漁業の島です。歴史的スポットが数多くあり、迷路のような路地を散策すると、島文化にふれあえます。

海上安全や大漁を祈願する祭りや寝屋子制度などの古い慣習が残ります。戦国時代に水軍を率いていた九鬼嘉隆にまつわる史跡があります。

無形民俗文化財「寝屋子制度」

寝屋子制度(ねやこせいど)は、三重県鳥羽市の答志島答志町で古くからおこなわれている風習で、中学校を卒業した男子は寝屋親と呼ばれる世話係の大人のもとで共同生活を送ります。

日常生活全てを寝屋子で過ごすのではなく、食事などは各自の家庭で済ませ、夕食後に寝屋子に集まります。かつては毎日夕食後に集まっていたようですが、現在では(土曜日が漁業の休みになるのでその前日の)金曜日の夜に集まることが多いです。また、以前は島の全員が寝屋子に入っていたが、近年では主に長男が寝屋子に入るようになっています。

寝屋子では漁業を学んだり、村の祭り(神祭など)のときに大切な役目を任されたりします。寝屋親は、寝屋子の経験者の中から選ばれますが、その条件は子供たちをまとめるためのリーダーシップなどの人格があり、何人も一度に泊められるだけの大きい家を持っていることです(その家に娘がいるかいないかは関係ない)。また、寝屋親は実の親より若い人から選ばれるのですが、独身者は選ばれません。

寝屋子は寝屋親に、正月とお盆の2回贈り物をします。そして、これのお返しとして寝屋親が寝屋子にごちそうをふるまうことを「寝屋子振舞い」と言います。寝屋子は、メンバーのだれかが結婚すると解散になります。答志島では結婚のときには2人が仲人を務めるのですが、そのうち1人は寝屋親が務めることになっています。寝屋子が解散しても、メンバー同士は朋友会または寝屋子兄弟という関係となり、その後も生涯にわたって強い絆で結ばれると言います。

解散する寝屋子があれば新たに結成される寝屋子もあるため、答志島では10組程度の寝屋子が存在しています。寝屋子制度の歴史は江戸時代に遡り、15歳になった少年が「若い衆」と呼ばれる集団の一員となったのがこの制度の始まりと考えられています。

現在ではこの制度は答志島だけに残っていますが、かつては伊勢志摩地方全域でみられる風習でした。答志島は古くから漁師町であったため、漁そのものや船掃除など、大勢の人々が協力しないと成立しない作業が多く、それがこの制度が今日まで存続している要因であるとされます。寝屋子制度は1985年に鳥羽市の無形民俗文化財に指定されました。 

県外の子どもでも答志島で学ぶことができる「離島留学」という制度があります。子どもの教育を見つめ直すきっかけになるのではないでしょうか。

答志島で体験したい島文化

路地裏つまみ食い体験&海女小屋」ツアー

答志島には海女が漁のために暖をとる「海女小屋」があり、小屋の火場(囲炉裏)を囲んで、気さくな海女さんとおしゃべりしながら食べる新鮮な魚介の味わいは格別です。「路地裏つまみ食い体験&海女小屋」ツアーでは、現役海女さんや元海女さんから、普段はなかなか聞けない海女漁の話を聞くことができます。

八幡神社の祭礼「神祭」

答志島の八幡神社の祭礼である「神祭」は毎年旧暦の1月17 日~19 日に行われます。(現在は、旧暦の1月17日~19日の直近の土・日曜日に開催しています。)弓引神事は、祭の中で最も盛り上がる迫力満点の行事です。「お的衆」と呼ばれる若者たちが、畳一枚半ほどの「お的」(木組みに紙を張って墨を塗ったもの)を担いで坂を駆け上がると、待ちかねた町民が次々とお的に飛び込み墨紙を奪い合います。

人々は護符にかわるこの墨紙で家の戸口や船に「丸に八の字」を書いて、1年の大漁と家内安全を祈願します。弓引神事の後、舞台では獅子舞が始まります。町民一丸となって祝う勇壮な祭りは、島の若者たちによって今も受け継がれています。(国土交通省の島の宝100景に選定)

答志島の観光スポット

答志島の絶景を見るならRayFieldとBlueField

RayField

Blue Field

岩屋山古墳

標高約80mの山頂付近にあり、この地方屈指の大きな横穴式石室がほぼ完全な形で残っています。
全長22m、高さ2.5mで、天井は大きな6枚岩で間近に見る石組の様子は見事です。

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