日本の歴史における離島の重要性

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日本には、6000を超える離島があり、世界有数の離島大国です。その内の420もの離島に人が住んでおり、それぞれの離島に日本の歴史に深く関係する過去がありました。

神話に物語る国土の成り立ち「国生み」

日本最古の歴史書と伝えられている『古事記』や『日本書紀』の中で、「国生み」について書かれている部分があります。天にある高天原から伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)が、天と地をつなぐ橋であった天浮橋から矛で海水をかき混ぜ、矛の先からしたたった塩が固まってできたのが淤能碁呂島(おのごろじま)と伝えられています。淤能碁呂島は今の兵庫県淡路島にある沼島であると考えられています(諸説あり)。

沼島近くの南に聳え立つ「上立神岩」は、イザナギとイザナミが岩の周りを回って婚姻を行った「天の御柱」だと伝えられています。

二神は淤能碁呂島に降り夫婦となって交わり、大八島(おおやしま)と呼ばれる8つの島を生み出しました。

①淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):兵庫県淡路島 

②伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国

③隠伎之三子島(おきのみつごのしま):島根県隠岐島(隠岐諸島)

④筑紫島(つくしのしま):九州

⑦伊伎島:長崎県壱岐島

⑥津島:長崎県対馬島

⑦佐度島:新潟県佐渡島

⑧大倭豊秋津島(おほやまととよあきづ しま):本州の一部

〈出典/『古事記』(岩波書店)などをもとに作成〉https://www.nijinet.or.jp/Portals/0/pdf/publishing/SHIMANAVI.pdf

続いて、⑨吉備兒島(きびのこじま)(岡山県児島。現在は半島)、⑩小豆島(あづきじま)(香川県小豆島)、⑪大島(山口県屋代島か)、⑫女島(大分県姫島か)、⑬知詞島(ちかのしま)(長崎県五島列島)、⑭兩兒島(ふたごのしま)(長崎県男女群島か)の島々が生み出されました。

『古事記』は8世紀に編纂されたものですが、そのころの大和地方の人々にとって、離島が国土の重要な部分を占めていたことがわかります。

新しい文化・道具はまず離島から入ってきた

火縄銃が初めて伝来されたのは鹿児島県種子島、キリスト教が初めて伝来されたのは、長崎県平戸と言われているように、海外からの文化や道具が入ってくるのは、昔は離島からでした。

日本の食生活を変えた水田稲作の伝来

古来より日本人の主食となっていた米を作る水田稲作は、縄文時代後期から弥生時代にかけて大陸からの渡来人とともに、次の 3 つのルートで伝わったとされ、いずれも島がルートの要所となっています。

①華北→朝鮮半島→対馬・壱岐→九州北部

②華中→五島列島や長崎県西部

③華南→台湾→沖縄→南西諸島→鹿児島(柳田国男「海上の道」が提唱)

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渡来人は、稲作の技術だけでなく、青銅器や鉄器の製造技術、紡織技術、銅鏡や細型銅剣・銅矛・銅戈といった製品、豆類を加工した発酵食品なども持ち込んだとされています。

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日本刀から銃へ 火縄銃の伝来

16 世紀半ば、鹿児島県の種子島に一隻の中国船が漂着しました。その船に乗船していたポルトガル人の持っていた火縄銃を領主の種子島時堯が買い取り、刀鍛冶の八板金兵衛に複製を命じました。重要な部品の製作方法がわからなかった金兵衛は、娘の若狭をポルトガル人に嫁がせ、作り方を習おうとしました。このようにして完成した火縄銃は、日本の戦を変えていきました。

毎年8月の中旬に「種子島鉄砲祭り」が行われています。

大国と交易を行なっていた離島

「魏志倭人伝」に記された離島の都「原の辻遺跡」
https://www.instagram.com/p/CWx5KUvvmLk/

3 世紀末に書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から対馬国、一支国を経て、卑弥呼が治める邪馬台国にいたる行程が示されています。この一支国(現在の長崎県壱岐市)の王都であった「原の辻遺跡」は、国の特別史跡に指定され、日本最古の船着き場の跡やさまざまな地域の土器、中国の 貨幣、日本唯一の人面石、ココヤシでつくった笛などが発見されています。当時の一支国が交易と交流によって栄えていたことがうかがえます。

大国「漢」から贈られた金印が隠されていた離島「壱岐島」

江戸時代中期の1784年に福岡県志賀島で発見された「金印」には、中国「漢」の光武帝が福岡平野にあった「奴」国の王に贈ったことが刻まれています。金印は福岡市博物館が所蔵しています。

日本の首都と海外を繋いでいた離島

海外と繋がる離島①韓国の朝鮮通信使と対馬
https://withnews.jp/article/f0141030000qq000000000000000G0010201qq000011067A

日本の江戸の将軍の代が変わったときや後継が生まれた時に、それを祝うために隣国朝鮮から朝鮮通信使が派遣されていました。朝鮮通信使は、韓国の釜山から船に乗り、対馬に寄港後、瀬戸内海を通って、淀川を上って京都までいき、そこから陸路で江戸に入りました。朝鮮通信使は、福岡県の壱岐島や相島(福岡県新宮町)、瀬戸内海の島々にも寄港しました。

現在でも国交を祝う「対馬アリラン祭り」が対馬で8月第1土・日の厳原港周辺で行われています。

海外と繋がる離島②オランダと長崎の出島

出島は、鎖国政策をとっていた江戸幕府が 1636 年、長崎に造った人工島で、ここを通じてオランダとの貿易が行われました。当時、西洋に開かれていた唯一の窓口です。出島にはオランダ商館長の下に倉庫長、書記役など 15 人前後が住んでいました。8 代将軍徳川吉宗が産業の開発に役立つ学問を奨励し、キリスト教関係以外の洋書の輸入を解禁した結果、出島から入ってきた書物や情報は、医学、天文暦学などの研究を促進させました。蘭学を通して生まれた合理的思考と自由・平等の思想は幕末の日本にも大きな影響を与え ました。

江戸時代の物資の移動を支えた離島

北前船の寄港地となった佐渡島の宿根木集落(https://www.instagram.com/p/CX0GENMJrBB/)

江戸時代、各地の産品を積んだ多くの大型回船が列島の沿岸を行き来するようになりました。とくに江戸時代の中期から西回り航路で活躍した船は北前船と呼ばれ、大坂(大阪)方面から瀬戸内海を抜け、日本海を北上しながら北海道までの往復を航海しました。島の寄港地には、現在の山形県酒田市飛島、新潟県佐渡島、島根県隠岐諸島、広島県呉市大崎下島、香川県丸亀市塩飽本島 などがあげられます。それぞれの特産物が各地に運ばれ、物資の他に寺社建築技術、 お祭り、民謡などの技能や芸能が伝えられた形跡も島々に残されています。

日本の産業発展を支える離島

世界最高の人口密度を誇った「軍艦島」

長崎県長崎市に浮かぶ軍艦のような形をした端島は、長崎港から南西約19km の海上に浮かぶ孤島で、1890 年、三菱により操業が開始された 海底炭鉱の島です。

1974 年の閉山まで約 1570 万トンもの石炭を採掘し、最盛期の人口は約 5300 人に達しました。およそ6.3haの狭い島に多くの人々が生活するため、1916 年には日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設されました。これは当時、世界で一番の人口密度でした。石炭は必需品であったので高く売れ、当時高級品で三種の神器と呼ばれていた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫をほとんどの家庭が持っていました。高層住宅が林立し、島全体が岸壁に囲われた外観が戦艦に似ていることから「軍艦島」と呼ばれていましたが、石炭の需要が下がったために、廃坑となり、今では朽ちるのを待つだけの無人島になっています。

長崎県では、端島をはじめ、高島、中ノ島、伊王島(いおうじま)、池島、松島、大島、 崎戸島(さきとじま)、飛島など多くの島で炭鉱が操業していましたが、2001 年 11月の池島炭鉱を最後にすべて閉山されました。

国内最大の鉛生産量を誇る島「契島」
https://www.instagram.com/p/CTf2vb5PvXf/

契島は、瀬戸内海中部にある芸予諸島のひとつで、広島県大崎上島町にあります。島全体が民間企業の所有地になっており、1899 年に銅の製錬が始まり、現在、国内で最も鉛を生産しています。国内の自動車鉛バッテリーの 4 割以上に契島で製造された鉛が使われています。

日本の国境の重要拠点である離島

日本は、世界有数の海洋国であり、国土の12倍もの排他的経済水域を持っています。そのおかげで、水産物が豊かな食生活を送ることができています。

この排他的経済水域を保つためには、国境となっている離島が重要な境界となっています。第二次世界大戦では、日本の重要拠点となっていた沖縄本島や硫黄島で凄惨な陸上戦が行われました。

今でも日本兵のたくさんのご遺骨が眠る硫黄島

東京の南約1080km、グアムの北約 1130kmという戦略上の要所だったため、日本軍とアメリカ軍との間で 1945 年 2 月から約 1 カ月間の激戦が続きました。その結果、日本軍の約 2 万 1000 人のうち 96% が戦死、あるいは戦闘中に行方不明となりました。

民間人が殺されアメリカの国土になった沖縄本島

1945 年 3 月に沖縄県慶良間諸島に侵攻した連合国軍 は、4 月からの 3 カ月にわたる戦いで実質的に沖縄を占 領しました。この戦闘による日本の死者は、一般住民約 9万4000人を含め約18万8000人といわれています

ロシアに不法占拠されている北方四島

1855 年2月7日、日本とロシア間で「日魯通好条約」が調印され択捉島とウルップ島の間に国境が確認されました。第二次世界対戦で敗戦国となった日本は、ロシアに千島列島を受け渡すことになりましたが、その中に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は、含んでいませんでした。しかし、ロシアは千島列島と北方領土の両方を占拠してしまいました。北方四島がソ連に占領されて以降、今日に至るまでソ連・ロシアによる不法占拠が続いており、現在はロシア人が住んでおり、日本人が自由に行き来することはできません。

https://www.sankei.com/article/20161124-2OOLFFZALVOLRID6UDAJ3Y26P4/photo/RZLDAYNVX5MITENNK36HYKEASE/

今回のウクライナ問題で、ロシアが世界中から責められ、北方領土が日本に返還されるのでは、と考えています。

「日米の密約で、アメリカ軍は日本のどこにでも基地を作ることができる。ロシアの安全保障上、北方領土は返還できない!」(外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月))

これをプーチン大統領が本当に発言したのだとすれば、北方領土が返還されないのはアメリカのせいじゃん!

韓国に不法占拠されている竹島

竹島という名前の離島は、日本にいくつかあるのですが、隠岐の北西約 160km にある群島である竹島は、日本は、遅くとも 17 世紀半ばには竹島の領有権を確立し、1905 年には島根県に編入するなど、歴史的にも国際法上も日本固有の領土です。しかし、韓国は国際法に反して、1952 年に李承晩 ラインを一方的に設定。そのライン内に竹島を取り込み、警備隊員を常駐させるなど、現在も竹島を不法占拠しています。日本は竹島問題について、 国際法に基づく平和的な解決を目指しています。

中国と台湾が領有権を主張する尖閣諸島

尖閣諸島は、石垣島の北西約 170km にある魚釣島などの島々の総称です。日本は 1895 年、どこの国にも属していないことを 慎重に検討したうえで、国際法上正当な手段で尖閣諸島を日本の領土に編入しました。また、1972 年の沖縄返還協定により、日本 に施政権を返還する対象地域にも含まれるなど、一貫して日本の領土として扱われてきました。中国と台湾は、周辺の海底に石油資源の存在が指摘された後の 1971 年以降に領有権を主張し始めましたが、尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかです。そのため、尖閣諸島をめぐり解決しなけ ればならない領有権の問題は存在しないというのが日本の基本的立場です。

魚釣島の鰹節工場

〈写真提供/古賀花子氏・朝日新聞社〉

尖閣諸島が日本領へ編入された 1895 年以降、民間の実業家・古賀辰四郎が日本政府の許可の下、鰹節工場や羽毛の採集などの事業を展開しました。一時は、200 人以上の住人が尖閣諸島で暮らし、税徴収も行われていました

歴史人物と離島の関係

天皇が島流しされた隠岐島
https://www.instagram.com/p/CdpD57SLcL_/

後醍醐天皇は、鎌倉時代末期の正中の変(1324年)と元弘の乱(1331年)の二度にわたって倒幕計画を立てましたが、敗北して鎌倉幕府により現在の島根県隠岐へ島送りにされました。

後鳥羽上皇は配流の地で「われこそは新島守よ 隠岐の海のあらき波かぜ 心して吹け」と詠んでいます。

1333 年に隠岐から脱出し、名和長年に迎えられ挙兵。同年5月には足利尊氏や新田義貞などの手により鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による「建武の新政」が開始されました 。しかし、その後、足利尊氏と対立し、吉野へ移って南朝を開き「南北朝時代」が始まりました。

隠岐島には、小野篁(おののたかむら)も島送りにあっており、百人一首にある「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り 舟」は、その時に詠まれた歌です。

僧俊寛が島流しにあった鬼界ヶ島

僧俊寛は、1177年に京都鹿ヶ谷で行われた平家打倒の陰謀が露見し、平清盛によって鬼界ヶ島へ流されました。この島がどこかは諸説ありますが、上演された歌舞伎『俊寛』では、都から赦免船がやってきたものの、ひとり島に置き去りにされる俊寛の悲痛な姿が描かれています。

平家打倒の陰謀を立てたとした俊寛・成経・康頼の三人が流刑となった翌年、清盛の次女で,第80代天皇高倉憲仁の中宮である徳子が懐妊したことに喜んだ清盛は、流罪となった者達に恩赦を発しましたが、その赦免状には成経・康頼の名はありましたが、俊寛の名はありませんでした。愕然とする俊寛をよそに、使いの船は成経・康頼の二人を乗せると、さっさと島を去ろうとしました。俊寛は出て行く船にすがりつき、必死に乗せていってもらうよう泣いて頼みましたが、使者に引き剥がされしまいました。俊寛は渚に倒れ、赤子のように泣き喚き、船の行く先を見つめ、その夜を明かしたと伝えられています。俊寛辞世の句として「是乗せてゆけ具してゆけ」と伝えられています。

俊寛が流刑となった鬼界ヶ島は、現在の鹿児島の三島村の硫黄島ではないかと言われています。硫黄島には,平家が滅びた壇ノ浦の戦いで,入水し崩御したとされる安徳天皇が実は硫黄島へ逃げ落ちて余生を送ったと言われる「平家の落人伝説」の伝説も残されています。

▲故・十八代中村勘三郎が熱演する歌舞伎『俊寛』を観る島内外の人たち(2011年)。〈写真提供/三島村〉

島送りにあった人々

歴史に登場する人物が次のような島にそれぞれ島送りになっています。

●順徳上皇、日蓮、世阿弥→佐渡島

●宇喜多秀家→八丈島

●英一蝶、生島新五郎→三宅島

●西郷隆盛→奄美大島、徳之島・沖永良部島

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